アメリカ生活からは少し離れるのですが、良い年齢になり、親も良い年齢になったことで自分の身の回り、親族との関係性において、いろいろなことが起きていて、色々と考えることがあります。
自分自身の戒めにもなるかと思い、少し、私の母親について書きたい。
母は九州の田舎町で育った。兄がいて、両親がいて、あまり裕福な家庭ではなかったらしいが、顔の広い父のおかげでいろんな経験をできたらしい。
若干22歳でラーメン屋で知り合った父と結婚し、なぜか母方の親戚が多い地区に引っ越した。
それは父に良い仕事を紹介してやると、親戚が言ったからだという。結果色々あったものの父は結婚してからの14年間、その紹介された職場に勤めた。当時勤めていた工場の給料の1.5倍は払うと言われていたらしい。結論としてそれは無しえなかった。
この引っ越しから母の人生は少し狂い始めた。
母は子供の頃から父っ子だったらしい。
私の祖父は相当な傾奇者だったらしく、いきなり10万円の番傘を買いにいったり、息子の虐めに対しては毎回燕尾のスーツにハットをかぶって番傘を杖替わりに学校にクレームをつけに行った。いきなり六法全書を暗記して自分が起こした裁判は自分で完結させた。いきなりJEEPを買ったり、アメリカにハマって聖書を読んだり。ちなみに色々あったので小指も無かったし、背中に竜と虎を飼っていた。
(ただ母曰く母が小さいときにはすでにクリーンな状態だったとのこと)
祖父は九州の山奥に住んでいたのに、魚屋をやりたいといきなり店を開き、お客様というお客様全員と友達になった。「配達に行く」と言い残していきなり居なくなったと思ったら翌日べろべろになって帰ってくる、そんな破天荒な父の元、私の母は育った。
私の母はいつもそんな父(祖父)がカッコよかったとずっと口にしていた。
いまだに祖父のこととなると、楽しそうに「大変だった」と笑う。
だけど祖父は私が2才になる前に死んだ。
16才も年下の祖母を残して。
母は祖母に、親族も多い私たちの家の近くに住むよう進めたらしいが、祖母は祖父と住んだ家に残った。
祖母が住んでいた家と、私たちが住んでいた家は車で2時間の距離にあり、なかなか会うことはできなかった。それもあってか母は毎晩祖母が落ち着けるように電話をしていた。アルコール依存症気味だった祖母にアルコールを飲まないですむようにするために電話をしていたらしい。
それは私が8才くらいになるまで続いた。
いつだったか忘れたが、「また電話しとるな」と私がつぶやいたら、父は「あれは普通じゃない。真似はするなよ」と私に言った。その時は意味がよくわからなかった。
私が小さい頃母は家で内職をしていた。縫製の仕事でカッターシャツの襟や袖をミシンで塗っていた。毎日毎晩夜中まで仕事をして、朝早くから起きて仕事をして、私が小学生に入るくらいまで、私は母親が寝てる時間をほとんど見たことがなかった。
私が10才くらいになったとき、母が「叔母を病院に連れて行く」という機会が非常に多くなってきた。いつだったか入院をした。その時は母は毎日お見舞いに行っていた。
母にとっての叔母は、祖母の妹に当たる人で、私たちの家から10分の距離に住んでいた。祖母以上に会う機会が多かったが、それほど良くしてもらった記憶はない。体が弱く、いつも家の中にいた。
小さいながらに、敬語を使わされたのを覚えている。
会社を経営している旦那がいたが、その人がサポートできないとのことで、母が通院や入院のサポートをしていた。
私はよくわからない中、母と一緒に入院している病院までよく一緒に通っていた。車で1時間半もかかる場所だった。夏休みの間は毎日一緒に行った。
それは3か月くらい続いたし、一度退院したとおもったらまた入院というのを合計2年近く続けていたと思う。
手術の立ち会いにもいかなければいけない、誰かがお見舞いにきたら母がその相手をしなければいけない、それでも母は文句も言わず毎日通っていた。時折疲れた、というくらいだった。そんな姿を見て私は育った。
母はいつもニコニコ笑ってお見舞いに来てくれた人に感謝を伝えていた。
それでも私が大きくなってくるにつれて毎日往復3時間の運転に、母は次第に疲れて行った。
ド田舎の帰り道、ちょっとした空き地に車を止めて、30分だけ眠るなんてことも増えた。
私は母が眠くならないよういろんなカセットに自分の好きな歌を作って母に新しい歌を教えた。それでも母は家に帰る途中の道で眠っていた。そうせざるを得なかった。
そのころ縫製の内職もまだ続いていた、毎日毎晩寝る間を削って動き続けていた。
とあるとき、もう一人の母の叔母(祖母の義姉)に当たる人が入院をした。その人も同じく1時間半かけて通うような病院に入った。でも別の病院で、母は毎日2か所めぐることになった。
ただ「元気?何かいるものある?」と聞きに行くためだけに2か所めぐるのだ。
そして肌着やらパジャマやら、その時々でほしいものを要求され、母はその買い出しに行ってから帰宅して、翌日ないしは当日に渡しにいく。
そのお金は全て母の稼いだお金から出ていた。
ある日の晩、母と父が大喧嘩をして、母が離婚をすると手紙を書いたときがあった。
子供ながらに勘がよかった私がその手紙を見つけ、離婚はしてほしくなかったから破り捨てた。その手紙を読んだから、当時小学生だった私は何が起きたのかをきちんと把握できた。
原因はお金に関してだった。
父は私が幼い頃、昔の友達に騙されて数百万の借金を負った。だけど趣味がパチンコでまったくお金を貯めれる生活ではなかった。
そんななかで母が親族にタダ働きをされていて、当初は父も何も言わなかったものの、母が家計に愚痴をつぶやいたため、父も怒った。
(正直、父のパチンコが無ければもう少し家計も楽だったろうとは思うが、数少ない趣味だったから母も強くは言わなかった。)
そしてその手紙の中には母が親族から受けてきた仕打ちがかかれていた。母なりに正直になぜそこまで親族に尽くしてるのかを説明したかったらしい。
私と姉が生まれたとき、親族からお祝いをもらえなかったこと。一方で、親族内では祝いを渡すのはきちんと行われており、母というか私の家庭だけ仲間はずれになっていたということ。母曰く、その町に住んでる親族の中で一番立場が低いから、とのこと。
母が入院生活をサポートしているのは、頼まれてやっていること、だけどやらないともっと大変になるという気持ちも大きいとのこと。
この時は正直意味がよくわからなかった。
そんなこんなあって、結局母は疲弊しきったものの、なんとか入院サポート生活を乗り切った。
そしてすぐに、新たに父と父の会社(母の親族が経営している)で大揉めする出来事が発生した。会社の経営が傾いたときに、社長から呼び出された父は「役員という肩書を挙げるからお前の名義で現金を借りて来てくれ」と頼まれた。従業員15人程度の有限会社に役員もくそもないのに、そんなくだらない言い訳をしながら借金を依頼してきた叔父に、父は断固として拒否をした。
最初は柔らかく断ったらしい。だけど毎日のように呼び出されていた。
そして楽しく過ごせていたのに、仲間たちがどんどん辞めていった。
そうこうしてる間に、会社から給料が支払われなくなった。何度も払ってくれと交渉に行ったらしいが、結局、3か月分程度支払われなかったと思う。
経営破綻直前に父はきちんと辞めることが出来て、私が中1の夏、父はハローワーク通いを始めた。
父が給料を払われなくなった時期に、母も外に働きに出た。
とある日、家にまで借金をしてくれと言いに来た親族がいた。
なぜうちなんだ、と父は断固として断っていたが、疲れていた。
母は、父に「借金をしてくれ」という親族に、もっと疲れ切っていた。
そんななか、母の叔母の病気が再発し、母がまた病院のサポートを頼まれた。
母は外に働きに出ているし、パート扱いで融通が利かないから毎週水曜と土曜日しかいけないい、と叔母の夫(この人も別の会社を経営していた、こちらは株式会社でまぁまぁ順調だった)に伝えた。相手は「それでもいい」と言った。
全て小さなボロイ家の玄関で行われた会話だ。全部私にも聞こえていた。
母が土曜日に病院に通い始めると、通い始めてすぐに、叔母は激怒していた。
仕事と私の命を天秤にかけるな、と。
祖母からも電話で怒られた。
親族のきついおばさんたちがうちに集ったこともある。玄関先で「あんたは何もしてない」と母に怒鳴り散らした人もいた。
母は毎週入院先に行ってたのにも関わらず、だ。
その中には一度たりとも入院先に行かなかった人もいた。
母がとうとうブチ切れて「あんたたちがいつ病院にいった!?いつ私に服やら食べ物のお金をくれたね!?あんたたちがいつ私のことを気遣ってくれたね!?」と泣きながら叫んでいて、近所の人が会話を止めにきてくれたこともあった。
私には何もできなかった。
今の時代だったらあまりに理不尽な親族の会話を録音して、SNSでプチばずリでもさせれたかもしれない。当時は私自身何が出来るのかわからなかった。
ド田舎の小さな町で、何をしたってすぐ広まる世界だったが、あまりに敵が多かった。
精一杯の努力としてめちゃくちゃ貧乏だった生活を楽しく過ごせるようにいつも笑っていたと思う。このころ、家では具なしカレーと具なし味噌汁とそうめんでやりくりしていた。きなこをこなのまま食べたり、小麦粉と牛乳と卵でパンケーキもどきを作って、思いこんで楽しんでいた。
母は玄関先で泣かされた日以来、叔母の病院に行くのはやめた。
それ以来憑き物が落ちたように仕事場の人と仲良くすごしたり、明るくなった。父も仕事が見つかり、私の素行問題が色々あったものの、順風満帆に過ごしていた。
そんな日が長くは続かなかった。
姉が高校生になるタイミングで、一番母が傷ついた出来事がおきた。
叔母の夫であるおじさんが、うちにきて姉の高校入学祝いを渡してくれた。
1万円だった。袋もなく、ただの1万円札だった。
その年、親族のなかから大学に行った人がいて、その人は10万円をもらった。
姉と同級生の、遠い親戚はそのおじさんから5万円の祝いをもらったらしい。
そんな話が簡単に耳に入ってくるド田舎で、母には1万円を渡して、最後におじさんは「これで十分やろ?」と耳も疑いたくなるセリフを残して帰った。
母は、何も言わず泣いていた。
私が高校に入ってすぐ、母と父は引っ越しをした。
その土地から出ることが出来ただけで、二人は幸せそうだった。
ここまでで、わかる通り、母には兄がいるのに、彼は一切母や祖母をサポートしなかった。ただ、私が高校生になって祖母が足を痛めたことがあり、住み込んでサポートしていたときに、母の兄が何度か来て、草むしりなどをしたあと、そのたび祖母からお小遣いをもらって帰っていった姿をみた。ちなみにお小遣いは都度3万~5万だった。
母もそういう兄のやり方、祖母の兄に対する態度に気づいていた。
ずっとわかっていたが祖母の兄に対する愛は止まらなかった。
私にすらお小遣いをくれなかったのに、母の兄にはお小遣いを渡していた。
私が関東に出て、23歳になったとき
祖母は乳がんで倒れた。手術を何度かして何とか生きのびたが、それ以来母は祖母が経営していた小さな弁当屋を手伝う羽目になった。
そしてまた母の人生が狂い始めた。
自転車操業とはこのことだろうと言わんばかりの、借金と返済を繰り返しつづける生活が始まった。何度となく売り上げを祖母が使いきり(主に親族への祝いや叔父(母の兄)への小遣い)母の努力むなしく借金は減らない。
そして母は今も借金を返すために弁当屋を続けている。
父が定年になってからは父も手伝い始めた。
二人は毎朝3時に起きて、料理を作り始め、母は弁当屋を昼頃に切り上げたらパートに出る。
そんな生活をもう7年近く続けている。
ド田舎で、ただ借金を返すため、応援してくれる地域の人を支えるために弁当屋を続けている。配達料もとらずに配達をしている。
今年の夏、父が膝を骨折してからは母が一人で回している。
そして、母は、祖母が痴呆になったことでさらに苦しめられている。
祖母はまだ母を認識しているが、母と父に対しては敵対心をむき出しにするらしい。
母が「危ないからやめなさい」ということを口にするたび「うるさい」「お前が〇ねばよかった」「キチガイ」などと非難されるらしい。
実の娘で、彼女が危なかったとき何度もサポートをしていたにも関わらず。
祖母にとっては、母がうっとおしい存在になっているらしい。
私も遠く離れた以上すぐに会いにいくことはできないが、経済面で出来るだけのサポートはしている。一定額を毎月振り込んでいるし、’古い弁当屋の修繕費など必要なものを出来るだけ払うようにしている。
それでもやはり毎月通信費が出せずに電話がとまる。
今月も電話がとまっていて、いくら必要か確認しようと電話をしたら母はまた泣いていた。
いつになったら解放されるのか、これまでの人生、何度も耐えてきたのになぜ見返りを求めてはいけないのか、どうしたらいいのか。
正直、母から聞いただけの話に関しては100%信用しているわけではない。
疲れているのは事実だし、少し脚色された部分は有ると思う。
ただ親族に苦しめられていたのは私がこの目で見た事実だし、それでも毎日頑張って文字通り献身的にサポートしていた母を尊敬していたのは事実だ。
そして何もしない兄夫婦がいることも事実で、祖母が借金を作りまくっていたのも事実だ。
私は母に12月いっぱいで弁当屋をやめるよう伝えた。
どうにか弁当屋をやめて、返すことに専念しようと。
計20年近くつづいた弁当屋だった、応援してくれている地域の人や企業などがたくさんあるが、儲けを出せない以上、もう終わりにしたい。
本当は無駄な出費や、原材料費を下げたりメニューを狭めたりすれば多少黒字になりうるが、正直そこまで私が口を出せるような精神状態ではないと感じた。
母には今の環境から逃げてほしいと伝えた。
終わりにしてほしい。
そうでもしないと、疲労のまま最悪の事態を起こしかねないとすら感じた。
私がすぐにアメリカに呼び寄せれる経済力もないが、すくなくとも日本での生活が成り立つサポートはできるだろう。
そしてもう決して若いとは言えなくなっている二人のため、何か出来ることを考えていかなければいけない。
これほどいろいろと母のことを書いたのは
いつか母に報われてほしいからだ。
それが私の努力でなんとかなるものかはわからない。
だけどもう母がこれ以上頑張る姿を見るのはつらいものがある。
私の父はあまり多くを語る人ではないが、私が素行不良でいろいろ起こしたときに「人生はプラスマイナスで0になるようになってる」と言っていた。
それが本当かはわからないし、そんなの個人の気持ち次第でなんとでもなる。
ただ正直、父も母も確実にマイナス100以下を歩みつづけている。
良い人であろうという気持ちが強すぎたがためにマイナスを生み続けていた。
もっと周りに敵をつくってでも強く言う人だったらきっとここまでにはなってなかっただろう。
どうか二人が、いつか報われますように。
せめてマイナスから0まで上がることができますようにと。
私は私にできることをやり続けるしかないのである。
これは戒めのポスト。
これからは私が出来ることをより実行していこう。